第1章 若き料理人へ 序章|料理人と仕事

料理人と仕事(1)

第1章 若き料理人へ 序章

ヘスティアは、公私のかまどを司るギリシアの女神。

公にはオリンピアの聖火を、私には家々のかまどを。

われわれの調理場は、その公私一体。すなわち、

人の命にたずさわる、聖なる煮炊きの火を受けつぐところ。

いまの時代、いろいろな人がいろいろな角度から、料理というものをながめています。

ときどき、きかれるのは、

「料理人とは、なにを、どう、考えるものなのか」

「ひと皿の料理、一枚のメニュー。それを決める理由とは」

これら「料理人の実態って、なんだろう」というクエスチョンに、この本は、かなりのところまで答えられるように思います。

ここにあるのは、たんなる個人の意見でなく、料理界に伝わる方法論でもあるし、人間の知恵でもあるし、また、脈々とながれる料理人としての意識でもあります。

これを、調理場以外の人に、とりわけ料理人をマネージメントする立場の人に、知ってもらう機会があれば、と長いあいだ考えていました。

料理人の職業というのは、結局のところ、

「ものを食べやすくして、人によろこびをあたえ、健康管理をして、病人をつくらない」

これが基礎的な、ものの考えかたで、これ以上のなにものもないです。しかし、これを基本としながらも、この基本を満たすのと、「その人が、はたして料理人としてどうか」とは、また、べつの問題です。

若い人が、ときどき言うには、

「おやじさん、このソースは、どれくらい、おいしくすればいいんですか?」

〝おいしい〟ということは、何によって測るのか?

「これが良い状態のものだ」というモデルを、舌に積みかさね、記憶にしまい込み、それを記憶から取りだして、手と舌で再現すること、これが、料理人のもつ〝料理の能力〟であり、そこにみちびくのが、日々の仕事としてのトレーニングです。そのなかで、おいしさの尺度をふくめて、料理人としての五感の完成に近づいていく。

だから「どれくらい?」ときかれて、「これくらい」とは答えられない。目に見えるモノサシでもあって、それを当てれば「上がったよ。おいしくなったよ」なら、ほんとうに簡単です。

たしかに〝昧〟を分析することはできますよ。ボーメ計で糖度や塩度を、酸度計で酸度を、というように測ればいい。しかし、これをいちいちやっていたのでは、料理人の仕事は、間に合わない。

それに、「どれくらい?」ときかなければならない人に、その段階では教えられない、ということもある。「このくらい」と答えたら、その答えを理解できる段階にあれば、まずは「どれくらい?」とはたずねないものだ。

口で言えず、目にも見えないものを、肌でおぼえるのが料理人です。機械によらず、身体の五感で測って、ある程度の条件がととのったものをつくり上げる、それが〝昧つけできる〟ことであり、料理人の至る熟練ということです。

完成に向かうのは、五感だけでないでしょう。現代では、食品学や科学によって、料理の素材も、調理過程も、大半は説明されている。知識には、トレーニングの過程をたすけるものと、上に立ったときに役立つものとがあるが、どちらにしても、これらの習得は、日々の仕事外、いわば、別わくにあって、各自がこれを、経験にプラスしていく。

だから料理人は、どこまで行っても個人の能力の世界であり、年功序列ではない。最終的な能力は、天性もふくめて、そこに至る個人の過程が決めるものです。

しかし、いかに技術と知識にすぐれていようと料理人に欠かすことのできないもの、それは、

「自分は料理人であり、人の命にかかわるものをつくっている」

という、職業への自覚でしょう。

極端にいえば、味がまずいのは、不愉快なだけ。ところが、どんなにおいしく感じさせても、そこに安全面のまちがいがあれば、中毒にも命にもむすびつく。これは、絶対に、取り返しがつかないことだ。

食物の安全をつくるのは、だれでもない、料理人自身です。「人の命にかかわる」という自覚が、つねに、いかなる些細なことのなかにも働き、そしてそれを、料理人の生涯を通じて、継続していく。この「心のかまえ」というものは、料理にたずさわる者すべてにもとめられること、とぼくは思う。

料理人は、経験と知識と意識をあわせた、その総合能力を片手に、つねに真剣勝負をするものだ。それが、「料理をお客に出す」ということです。

若い人たちは、「自分がやりたいから」と言って料理人になる。いまはマスコミにのっているし、そんなにわるい職業ではないと思って選択するでしょう。

ぼくらが若いころは、自分がやりたい場合と、家庭環境にもとづく場合と、ふたつあった。

それに、上の学校に行くのがイヤで、入る者もいた。「勉強なんてオレはきらいだ」となれば、そのころの男子は、就職するしかないでしょう。西洋料理の調理場というのは、当時の、あたらしい職種でもあったから、意外と、底辺から稜辺までの幅が広い。おなじ料理人といいながらも、経歴をもとめる部分もあるし、簡単に入れる部分もあったわけです。

そして調理場に入る。入ることより、入ってからのほうが大変だというのは、時代を問わず、職種を問わず、仕事上の真理のひとつです。だから今、中堅クラスで、

「料理人になって、こんなに勉強しなければならないんだったら、おれは料理人になんぞ、なるんじゃなかった」

と、ため息をついている人もいる。

だから、だれしも最初から料理人ではないです。

料理人をこころざす人が、料理人となるためのトレーニングを経ることで、料理人になりえる。

ただし、トレーニングを受けた人すべてが、常いかなる場合にも最良を尽くす〝真の料理人〟である、とは言えないと思う。

料理人になることと、真の料理人であること、どちらに至るかは、その人の、希望と意志と努力と天性とに、すべてまかされている。

時代が流れ、人のからだや、考えかたが変わっても、〝料理〟がもとめるものは変わらない。スープ鍋は相変わらず重たいままだし、ナイフもレードルも手から離れない。どれほど機械文明が進んでも、ボタンひとつで、ものができ上がる職種ではない。

だから、これからの若い人が、料理人をめざすというのは、本当に、たいへんなことです。

現在の仕事がもとめるものは、過去がつくった、広さと深さを継承することから始まります。

これに、これからの人が応えきれるかどうか、という点を、たいへんだと思う。

時代的な食生活の変化は、からだにおいて、若い人たちの体形と体力を変えた。

身体的変化というのは、身体だけにとどまらず、感覚・五感・味覚をも変化させるものだ。料理は、目に見えても、味は、目に見えない。

そこにおける、旧来のモデルと、あたらしい受け手との関係がいかなるものか、時代的差異を越えられるかどうか……。これは料理という職種のみならず、社会全体が問題として見ている。

時代はつねに新しい波に洗われる。

波が、多くの変化をよびおこすか、寄せては返すだけなのか、それはわからない。そこに立って、なにを捨て、なにを拾おうと、それは自由だ。変化をおそれる必要はない。

ただ、ぼくがこれからの時代に、最終的にのぞむのは、いまの若い人たちの中から、これからの時代を生きる、あたらしいタイプの料理人が生まれ出ること、いまの若い人たちによって、真の意味で完成された、あたらしい料理人像が創造されること。

そして、その人たちが過去をふりかえったとき、その人たちもまた「われらが時代」の輝きをながめやることができるように……。

これがぼくの、料理人としての、消えることのない願いである。