第1章 若き料理人へ 料理人をこころざす人の条件|料理人と仕事

料理人と仕事(2)

第1章 若き料理人へ 料理人をこころざす人の条件

いまは、自分で職業をえらぶことができるでしょう。

えらぶ前なら、料理人でも、絵かきでも、洋服屋でも、何にでもなれるわけ。

ところが「自分は料理人になるんだ」と決めると、たいがいは、絵かきにも、洋服屋にもなれない。

「ひとつをえらぶ」というと、いかにも積極的に聞こえるけれど、裏がえしてみれば、「それ以外をえらばない」。

大げさに言えば、料理人以外の、あらゆる職業にたいする自分の可能性を、自分の意志で断ち切ること、これがすなわち、自分は料理人を職業とする、ということです。

もちろん、こう言う人もある。

「ひとつをえらんだら、あとは自動的に、えらばれないだけだ」

自動的にのこると考えるか、捨て去ると考えるか……、たとえば、机の上に五個の石があるとする。それを自分にとって一個にしたいとき、方法はふたつあるでしょう。

ひとつは、一個を自分の手にとって、あとの四個は机の上にのこしておく方法。

ひとつは、自分の決めた一個はそのままにして、あとの四個を、机から払いおとしてしまう方法。

結果は、どちらもおなじように見える。しかし、その一個のもつ、自分にとっての意味あいまで、「おなじ」といえるものだろうか。えらぶということの裏がわを、どうとらえるかによって、選択をおこなった意志の質に、なんらかの差が生じると思う。

だから、いまからの若い人が、「料理人にでもなろうか」「料理人にしかなれそうもない」、この程度で職業を決めるとしたら、料理界にかぎらず、これからの、おそらく変化の多い時代を、生きるのはむずかしい。

意志がなければ、なにものも生まれない。

やっていくうちで、日々の仕事のなかに、おもしろみを見いだすことも、それを追いもとめることも、意志がなければ、苦痛になるだけです。

努力の積みかさねである料理人の道を、迷わず、息切れせず歩むには、妥協の入らない意志が、どうしても必要です。これは教えることも、分けてやることもできない。そして、歩みつづけて終点に至ることで、ひとつの職業をえらびとった責任を、自分にたいして果たすことができる。

だから「料理人になる意志の存在」、あたりまえのことだが、これをぼくは前提条件のひとつにかぞえていいと思う。

また、若い人にかぎって言えば、その人が料理人をえらぶにあたって、職能につながる条件は、なにも求められていない。味覚が、すぐれている劣っている、このような、本人が感じる自信や不安は、どちらも無用です。

なぜなら、料理人は、料理人としてのトレーニングを受けることで、料理人になっていく。

つまり、実地のトレーニングなしでは、成り立たない職業です。したがって、トレーニングを受ける以前の人の、料理人としての最終的な才能の有るなしは、だれにもわからない。

なぜ、若い人には無条件なのか?

人間のからだは、ほほ二十五才で成長が止まり、そのあとは、序々に安定へ向かって、三十才をすぎると、ほとんどの人が、外界の諸条件の変化に左右されないからだになります。

つまり若い人は、からだも頭も感覚も、まだ固定されていない、すなわち、変化する余地があるということ。この、変化が可能な期間中に、なるべく多く、職業上の、感覚的なトレーニングを受ける時間が、かさなるほうが望ましいわけです。だから、〝若い〟ということは、それだけで、すでに条件になっている。

逆に言えば、四十才で始めるのではおそいと思う。

理由は、それ以降の時間的な問題でなく、トレーニングすなわち適応変化を受け入れにくく、その定着度も低い、という身体的な状態によるものです。

ぼくが、料理人の受験資格をきかれたら、まず「妥協のない意志」と「若い年齢」をあげる。

それをクリアーしていれば、もっと身体的な必須条件へとうつります。